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なり残っています。それによるとおよそ一四〇年間で二万頭を捕って、三百万両以上の収益があったそうです。その収益は当然鯨組である益冨組が上げた利益なのですが、ただ益冨組の場合は、生月だけで鯨を捕ったのではなくて、江戸時代の中期後半から後期にかけて、壱岐島や五島列島などの有力な捕鯨地に進出して鯨組を編成する、言うなれば支店をたくさん設けるような経営をしていたのです。
谷川…壱岐は勝本ですか。
中園…印通寺という壱岐の南にも捕鯨地があったのですが、主な漁場としては、勝本と芦辺です。
谷川…中園さんは、生月の前に呼子の教育委員会に勤務していましたが、呼子辺りも江戸時代、捕鯨は盛んでしたか。
中園…そうですね。江戸時代初期から、突取式捕鯨がかなり盛んに行われていました。最初紀州で鯨捕りをやっていた突組が、一七世紀初頭に西海に出没してきましたが、呼子沖の小川島にも来ていたという記述が『西海鯨鯢記』に見られます。その後、地元の小川島、名護屋、呼子でも捕鯨をおこなうものが出てくる。一八世紀になると呼子に中尾甚六という鯨組主が出てきて、盛んに鯨を捕るようになる。このころになると網取式捕鯨という方法が用いられるようになります。
途中藩が直営で鯨を捕ったりする時期などもあるのですが、だいたい明治の初めくらいまで中尾組の経営が続きます。その後、小川島捕鯨組、さらに小川島補鯨株式会社になるのです。捕獲法を見ると小川島の場合は網取式補鯨が明治三十七年まで続いた。その後、銃殺式さらには捕鯨砲を使った捕鯨になるのですが、その中でも江戸時代の古い形の補鯨のスタイルを残している。例えば山見から鯨を探すやり方、それから解体の時に鯨を陸に引き上げるのですが、昭和になっても江戸時代と同じようにロクロと言われる人間で回すウインチを使っているのです。しかもそのウインチを回す回し手は、解体所のある加部島の人々で、加部島の集落を三交替に割って、順番に出てきてもらう。そしてその人たちの報酬は全部鯨の肉で払っていた。
谷川…鯨の肉を弁当箱のように切り取っ

 

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上・江戸時代の山見(鯨を見張る小屋)[「小川島鯨山見」『鯨魚覧笑録』島の館蔵]
下・現存する小川島の山見小屋[県指定民俗文化財・中園成生撮影]

 

 

 

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